2010年04月18日

ソーシャルメディアと自分の「価値」の幻想

物事の価値は、関西人の僕に言わせれば
  • 切り口
  • 新鮮さ
  • ベタ
の3つしかないと思ってる。
 
鋭く想像を絶する「切り口」の価値は、ダウンタウンの漫才だ。鋭利な切り口を提示して人を振り向かせる。
 
いつ見てもその場ではじめて立ち生まれたかのような「新鮮さ」は、やすきよの漫才だ。生命力にあふれた「今・ここ」を提示して、人をその現場の証人にさせてしまう。

人が、なにかしら先端のプロでいるためには基本的にこういった「切り口」「新鮮さ」が勝負だ。
そうでなはなく職業、商品として成立するために必要のは「ベタ」の価値を真っ当になぞることだ。
これってたぶん、おおざっぱな分類なだけに、分かりやすくて当たってると思うんだよ。
 
 
 
ところが実際には、現実に通用している価値はこれだけではないようなのだ。
 
体育会系的・徒弟的にしたり、情報を隠蔽することによって、閉じた世界を構築され、本来存在しない価値がむりやり作られていたりする。
アカデミズムとか、スピリチュアルとか、マルチレベルマーケティングとか、職人/技術者とかの世界がそうだ。記者クラブとか業界団体もそういうもんだろう。
閉ざすことで、領域ができるわけだから、外界とのボーダー/エッジが出来る。
内側をピラミッドにしておけば、頂点が先端になってしまう。
 
こういうふうに考えると、もはや、世の中全部そうじゃねーのって気がしてくる。
起業しようぜ、団体作ろうぜ、ユニットつくろうぜ、一緒に面白いことやりましょう!てな具合に人が徒党を組みだしたら、自然と先端らしきものが出来てしまう。
他所からみればエラそうに見えても、世の中の「先端」ってけっこうあやしい。
 
何を信じればいいのやら。
 
 
結局その答えを自分ブランドとかそういう結論に求めるのが今の流行だ。自分だけの価値。ナンバーワンよりオンリーワン。ニッチなブルーオーシャン。フリーミアムをどんどん活用せよ。ソーシャルメディアで自分発信。
それはある意味正しいと思う。

 
ただ、この「自分ブランド」的な考え方って、セクショナリズムの究極でしかないのではないか。
しかも9.11以降の個人主義、ナショナリズムの台頭とも無縁だとは思えない。
 
セキュリティ=セクショナリズム、要するに自分さえ良ければいいっていう競争社会。
 
Twitterのゆるいつながりがすごく今有効なのは、こういう前提があるからじゃないかな。
傷つけたくない、傷つかない。
リアルタイム性そのものを消費することで、コンテンツやアーカイブという経時的・累積的な営為から開放されて、コミュニケーションが加速している。
 
でもソーシャルメディアのオープンさも、実はこういうセクショナリズムの問題とウラオモテなんじゃないかな。組織政治がどんどん高度になっていっているだけではないか。
「オープン」っていうのは、社会的なファンタジーではないのだろうか?


さっきの3つの価値分類を参照してみよう。

 
「自分ブランド」戦略っていうのは、
  • 固有の「自分」に起因するから「切り口」の価値があるように見える
  • 自分が生きている限り常に「新鮮さ」の価値があるように見える
  • みんなおんなじ人間で親近感あるよね、っていう「ベタ」の価値があるように見える

そういう意味では完璧なのだ。

 
ソーシャルメディアが、この3つの側面すべてを促進しているのは間違いない。
Twitterでツイートする自分だけの切り口(鋭いこと言ってふぁぼられたい症候群)、リアルタイムの新鮮さ、それらをみんなで共有してベタになる安心感。

ただ、「自分ブランド」戦略がセクショナリズムの成れの果てなのだとしたら、
ソーシャルメディアの価値もかなりの部分、幻想に根っこがあるってことにならないだろうか?


ソーシャルメディアはオープンなので、閉ざされた世界の壁を駆逐していく?

ICTはすべてを見える化してしまえる?

Google的な者によって、すべてはインデックスされた情報になり、リアルタイムに利用可能になる?


でも、政治は無くならないと思う。
人間が個別の営為的な動物である限り。
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posted by taichistereo at 23:15 | Comment(0) | ものづくり論
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