(価格)¥648 -> 古本で105円
(著者)松本人志
(出版)朝日文庫/1997
(読書の狙い)
・発売当時以来改めて読み直すと、「松本人志」という人物像に何か新しい発見があるのではないか
・昔の自分の思考を思い出し、自分自身についても新たな発見があるのではないか
(読書前の予想)
・軽く読めるか、深く読み込めるかのどちらかだろう
・ラジオ番組、映画、結婚を経た今とでは、かなり読後感に隔たりがあるのではないか
(読書後の所感)
かつて「遺書」を読んだのは、単行本発売間もなくの、自分が高校1年か2年の頃だった。
1994年10月の発行だから、今(2009年10月)から15年前のことだ。
高校と並行して予備校に通うようになって再開した小学校の頃の同級生が、半ば無理矢理貸してくれたものだった。
当時は「ごっつええ感じ」全盛で、クラスでは毎日のように誰かがコントの話をしたり、真似をしたりしていたものだ。
今でこそ「松本人志の放送室」を全回コンプするほど松本人志の笑いが好きだが、正直僕はそのころ、ダウンタウンが好きじゃなかった。
当時僕は多感でとんがっていたし、メインストリームたるダウンタウンにむらがる同世代のにやけた同調圧力は我慢ならなかった。
そんなダウンタウンへのネガティブなイメージが僕の中で変わるきっかけになったのが本書だった。
15年経て改めて読んでみると、どうも上滑りしているというか、よく当時まともにこの文章を読んでいられたものだと感じる。
これはおそらく松本人志という人や、ダウンタウンというコンビにとっても、この本がターニングポイントだったということだろう。
このイマイチあかぬけない内容の本書がバカ売れした頃がちょうど、糸井重里や島田紳介などに擁護されつつ、「ごっつええ感じ」を辞めて、「HEYHEYHEY」などで日本の音楽売り上げ全盛時代の中心的MCとなり、、、といったフェーズに向かうタイミングだったのだ。
リアルタイムな世代にとってはちょっとした金字塔的なエポックだった本書も、今読み返すと、驚くほど「ここ!」「これ!」という文章が見当たらない。
細部に目を凝らせば、むしろ90年代的なユルさ(「〜〜ゾ」といった語尾や、括弧内で自分で突っ込むなど)が目につく。
全体を俯瞰すると、前述の「松本人志の放送室」につながる、「素の」松本人志像が浮かび上がる。
当時は確か「芸人が大胆な内容のエッセイを出して、ベストセラーになった!」というようなインパクトで迎えられていたはずだが、今ではショック的な威力、鋭さよりも「暖かさ」のようなものが感じられて仕方が無い。
一言で言うと「微笑ましい」ということになるだろうか。
決して懐かしい訳ではなく、今の松本人志像につながるようなそこはかとない「どうしようもなさ」を感じられる。
ちなみに、1963年生まれの松本人志は、当時31、2歳。
当時高校生だった僕と同じ世代の人たちと、ちょうど同じような年齢だ。
そういう意味でも「松本人志」と自分とを並べて比べられる、ちょっと面白い経験にはなる。
改めて考えると、松本人志/ダウンタウンは、20代でだいたいの大きな仕事をやりとげ、結果を出してしまっているのだ。
彼の事を考えると、「若さ」と「鋭さ」が不可分なのだろうということを強く感じる。
そして、前述の「あか抜けなさ」こそが、松本人志/ダウンタウンの通奏低音であり、にくめないところかもしれない。僕のようなファンに言わせれば、それこそが「松ちゃんらしさ」だったりする。
本書のなかでも特に印象的な一文を、以下に引用しよう。
人は、周囲から冷たくされればされるほど、その冷たさに耐えきれず、自ら熱くなれるものである
20代特有の異常なまでの集中力、"唯我独尊"的な強引な突破力、話術の鮮度ではなく発想の切り口をみせる芸風、そういったものがこの言葉に集約されているような気がする。
そしてもちろん、ちょっとカッコつけてる松本人志、なんとなく言葉がこなれてなくてごつごつした感じの松ちゃんらしさも読み取れる。