2009年10月08日

【書評】「松本」の「遺書」

(書名)「松本」の「遺書」
(価格)¥648 -> 古本で105円
(著者)松本人志
(出版)朝日文庫/1997

(読書の狙い)

・発売当時以来改めて読み直すと、「松本人志」という人物像に何か新しい発見があるのではないか
・昔の自分の思考を思い出し、自分自身についても新たな発見があるのではないか

(読書前の予想)
・軽く読めるか、深く読み込めるかのどちらかだろう
・ラジオ番組、映画、結婚を経た今とでは、かなり読後感に隔たりがあるのではないか

(読書後の所感)

かつて「遺書」を読んだのは、単行本発売間もなくの、自分が高校1年か2年の頃だった。
1994年10月の発行だから、今(2009年10月)から15年前のことだ。

高校と並行して予備校に通うようになって再開した小学校の頃の同級生が、半ば無理矢理貸してくれたものだった。

当時は「ごっつええ感じ」全盛で、クラスでは毎日のように誰かがコントの話をしたり、真似をしたりしていたものだ。
今でこそ「松本人志の放送室」を全回コンプするほど松本人志の笑いが好きだが、正直僕はそのころ、ダウンタウンが好きじゃなかった。

当時僕は多感でとんがっていたし、メインストリームたるダウンタウンにむらがる同世代のにやけた同調圧力は我慢ならなかった。
そんなダウンタウンへのネガティブなイメージが僕の中で変わるきっかけになったのが本書だった。


15年経て改めて読んでみると、どうも上滑りしているというか、よく当時まともにこの文章を読んでいられたものだと感じる。

これはおそらく松本人志という人や、ダウンタウンというコンビにとっても、この本がターニングポイントだったということだろう。
このイマイチあかぬけない内容の本書がバカ売れした頃がちょうど、糸井重里や島田紳介などに擁護されつつ、「ごっつええ感じ」を辞めて、「HEYHEYHEY」などで日本の音楽売り上げ全盛時代の中心的MCとなり、、、といったフェーズに向かうタイミングだったのだ。

リアルタイムな世代にとってはちょっとした金字塔的なエポックだった本書も、今読み返すと、驚くほど「ここ!」「これ!」という文章が見当たらない。
細部に目を凝らせば、むしろ90年代的なユルさ(「〜〜ゾ」といった語尾や、括弧内で自分で突っ込むなど)が目につく。

全体を俯瞰すると、前述の「松本人志の放送室」につながる、「素の」松本人志像が浮かび上がる。
当時は確か「芸人が大胆な内容のエッセイを出して、ベストセラーになった!」というようなインパクトで迎えられていたはずだが、今ではショック的な威力、鋭さよりも「暖かさ」のようなものが感じられて仕方が無い。
一言で言うと「微笑ましい」ということになるだろうか。
決して懐かしい訳ではなく、今の松本人志像につながるようなそこはかとない「どうしようもなさ」を感じられる。

ちなみに、1963年生まれの松本人志は、当時31、2歳。
当時高校生だった僕と同じ世代の人たちと、ちょうど同じような年齢だ。

そういう意味でも「松本人志」と自分とを並べて比べられる、ちょっと面白い経験にはなる。

改めて考えると、松本人志/ダウンタウンは、20代でだいたいの大きな仕事をやりとげ、結果を出してしまっているのだ。
彼の事を考えると、「若さ」と「鋭さ」が不可分なのだろうということを強く感じる。

そして、前述の「あか抜けなさ」こそが、松本人志/ダウンタウンの通奏低音であり、にくめないところかもしれない。僕のようなファンに言わせれば、それこそが「松ちゃんらしさ」だったりする。

本書のなかでも特に印象的な一文を、以下に引用しよう。

人は、周囲から冷たくされればされるほど、その冷たさに耐えきれず、自ら熱くなれるものである
(P.182)

20代特有の異常なまでの集中力、"唯我独尊"的な強引な突破力、話術の鮮度ではなく発想の切り口をみせる芸風、そういったものがこの言葉に集約されているような気がする。

そしてもちろん、ちょっとカッコつけてる松本人志、なんとなく言葉がこなれてなくてごつごつした感じの松ちゃんらしさも読み取れる。




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posted by taichistereo at 21:00 | Comment(0) | 読書

2009年09月28日

【書評】グーグルに依存し、アマゾンを真似るバカ企業

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(書名)グーグルに依存し、アマゾンを真似るバカ企業 (幻冬舎新書)
(価格)¥798
(著者)夏野剛
(出版)幻冬舍新書/2009

(読書前の予想)
・Google信仰、Amazon信仰というのはたしかにありそうだな
・自分の中にもあるんじゃないか
・IT分野に置ける自分の既成概念を刷新し、新しい視点を手に入れる事が出来たらいいな
・タイトルは多少誇張された「釣り」だろう

(読書後の所感)
あまりにも凡庸な内容だったので15分ほどで読み終えてしまった。
新しい発見に乏しいので、自己流の速読で読み進めていったのだ。

タイトルの意味は結局、
「グーグルやアマゾンの表面だけみて分かった気になって真似すればいいと思うな」
ということのはずだが、
実際にこの本で書かれているのは
グーグルやアマゾンを真似出来るほどおまえは賢くない。かわりにオレの説明を聞け」という内容だ。
本当に何も知らない経営者向けに、(著者の)基本的な考え方はこうだと教える本であって、斬新なコンセプトについて掘り下げられる訳でもなければや胸のすくような洞察が披露されるわけでもない。

もっと正確に説明するなら、端的に結論を本文から引用しよう。

日本の企業を引っ張っている経営者」には、「『とりあえずネットを使って既存のサービスを提供しておけばいい』という考えが透けて見える」。

この本の結論は、まえがきに書かれているこの一文以上のものではない。
具体的にそれはどう言うことか、というのが以降本文で展開されるかと思いきや、ネットユーザーなら誰でも見当がつくようなすごく当たり前の散文が延々と続くのみだ。
繰り返しになるが、新しい発見や斬新な切り口はここにはない。
Wikipediaで言えば「雑多な内容」「独自研究」「要出典」をいたるところに書き加えられてしまうような文章だ、といってもいい。
半信半疑で読み続けるというのは心理的につらい。
しかも発見に乏しいとくれば、丁寧に文章を追わなくても誰にも責められないだろう。

著者の経験の範囲内で当たり前の説明が組み立てられるさまを読み進めていると、ふと、「ネットビジネスの本質」が浮かび上がるかわりにむしろ「著者の自己紹介」が出来上がっていくことに気付く。
よって多くの読者の人生にとって、本書は大して重要ではないと言わざるを得ない。
“私はこういう事を知っていて、こういう経験があって、こういう言葉遣いで物事を(わかりやすく)説明する者です”ということが、テーマよりも丁寧に伝わってきてしまうのだ。
書名に釣られて本書を手に取った善良な読者にとっては予期せず迷惑なはなしではあるが、“専門外の顧客に対して自分の仕事をアピールする”という観点からみればこの「テーマのすり替え」は充分観察に値する。
悪気のあるなしに関わらず、著者のこのビジネス上の振る舞いは「真似る」価値がある。

テーマは「真似るバカ」ということになっているが、人は具体的な反面教師か、具体的なロールモデルからだと学びやすい。
真似る事は教育や学習の基本だ。
そしてバカだから学ぶ必要がある。
本書において、反面教師は具体的ではなく、読者そのものが批判対象である。著者にとっては読者が「仮想敵」のようなものと言ってもいいかもしれない。
「敵」という表現が適切でないならば、知を「持たざるもの」と呼んでもいいかもしれない。
ビジネスは持てるものから持たざるものへの配分であり、贈与・交換である。
その意味で、本書における具体的なロールモデルは著者自身である。
結果、筆者の真意はさておき、「グーグルやアマゾンを真似るな。私を真似よ」というのが本書のメッセージになってしまっている

そういった代物ではあるが、まったく読むべきでなかったのかというと、そうでもない。
なかから多少むりやり、比較的記憶に留めておく価値のありそうな記述を以下に抜き出してみる。

 既存の商店から、ウェブでも事業を始めたい、と相談を受けた際、私は必ずこう言うことにしている。
「まずは、リアルの世界でやっていることは、すべてウェブでもやってください」
その上で、ウェブは十店舗でできないようなことがたくさんできるので、それを志向してくださいと。
(中略)
 とにもかくにもリアルの店舗でやってきたことをウェブでも最低限やってから、ウェブ独自の展開として次の手を考えればいい。ウェブビジネスは、顧客の行動履歴なども全部記録が取れるので、クリエイティブな考え方の助けになってくれるだろう。
(P.31)

 私は、初回ユーザーが買い物をするインターフェースと、リピーターのインターフェースは別であるべきだと思う。
 リピーターの方が何度も訪れている分、便利な機能をたくさん使いこなせるのは明らかだ。もっと言うと、ごく稀にしか訪れないユーザーと、ヘビーユーザーのユーザーインターフェースは別にした方が、おそらく購入率は上がる。
 何度も言うが、ウェブビジネスは決して特殊ではない。リアルで行われているビジネスとまったく同じだ。
(P.36)

 アップルのiPhoneを例にとってみよう。ケータイ大国における日本であっても、iPhoneのような革新的な携帯端末は絶対に生まれない。
 なぜなら日本企業の場合、リーダーがビジネスのディテールを知らない、あるいはディテールを知らなくてもリーダーが務まってしまう組織構造だからだ。
 そういった面からも、iPhoneはひとつの象徴としてわかりやすいと思う。ソフト、ハード、そしてビジネスモデルも含めて、ユーザーのための価値を最大限にするための設計がほどこされている。決して、見栄えを良くしようとかデザインをよくしようということが先走っているわけではない。あくまでも顧客のフィーリングや使いやすさが最優先。パーツ毎ではなく、全体が最適化されている。
 結局のところiPhoneのようなプロダクトは、リーダー・責任者がディテールまで指令を出さなければ実現しないのだ。
(P.52)


これらとて、たまたま僕のアンテナがひっかかっただけで、ほとんどの読者には「で?」で流されてしまうところかもしれない。
そういう意味では、このタイトルに惹かれて本書を手に取るような人であれば、深く読み込もうとせずパパッと速読する事を前提にしてなら、2、3の発見はあるかもしれない。
僕の場合と同じ様に。

本書は、時間が経てば経つほど価値が減じていく、平凡な新書の典型のようなものだ。
もし図書館やオフィスに転がっていれば、軽く目を通してみる程度で良いだろう。
ただし、1年後には手に取る必要すら全く無くなっているかもしれない。

つい出来心で本書を買ってしまった僕のような人は、知り合いの大学生やまったくインターネットに関心の無さそうな親戚のおじさんにでも譲ってあげれば喜ばれるかもしれない。



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posted by taichistereo at 09:46 | Comment(0) | 読書

2007年10月20日

世界征服は可能か?

前回のエントリで書いた、<自分を曲げない素直さとモチベーション>の話に関連して。

「世界征服」なんつったら僕が小学生のころでも人に言ったら「つまんねぇ冗談」にしかならないようなレベルのお粗末かつ定型的な「夢」です。
それでも、どんなにアホな話でも、少しでも興味があるのならそれはちゃんと考えないといけない。
ちゃんと考えないと言うことは、自分の考え・感情・センスを黙殺していると言うことです。
もっと言えば、微少ではあっても確実に人生に影を落とすストレスになると思います。
ひとつひとつは0.00000001ミリグラムの重さしかないストレスであっても、人は毎日ものすごい数のストレスを受けているわけで、自分で自分のストレスになってるなーと自覚できるのはすっごいでかいストレスだけだと思うんです。

たとえば「あの同僚どうしようもねーなー」とか「なんで俺の財布を盗むやつがいるんだ」とか「なんであの店員はあんなに態度わるいんだ」とか。

こういう誰にでも分かるストレス(ストレッサー)の他にも、「電車のなかで一瞬いやなかんじの目でにらまれた」とか「すれ違いざまになんか変な感じにぶつかりそうになった」とか「なんとなく身体がだるい」とか「上司がなんとなく含みのある笑いした」とか、ビミョ〜に気になることも、実際には超微量のストレスになってると思います。

で、水がいっぱいたまった自分という器に、最後の一滴が注がれたときに、ダウンしちゃったり、立ち止まらざる得なくなったりしてしまう。
それは最後のストレスが直接的な原因に見えてしまうけれど、それまでにどれだけ器から水をかき出せていたか、ということこそが問題です。


同じように、「1億円ほしいけど、ない」「ハーレム作りたいけど、ぜったいムリ」「世界征服なんてそんなのあり得ない」とかっていうものすごく常識的な分別も、要は「やりたいことができない」「思い通りに行かない」ストレスになっているんだと思います。

だって酒に酔ったときとか「1億円ほしー!」とかおもっちゃうじゃないですか。
ストレスのあらわれであり、発散・解決したいわけです。


だったら、そのことに向けて自分は現実に何が出来るのか、とか
目的が達成された場合に残る問題は何か、とか
どういう人がどういうやり方で達成しているのか、とかいうことを
考えてみるべきなんだと思います。

考えた結果、ムリならムリ、実はあんま意味なさそう、でも良いと思う。
そうやっていろんなことに、自分自身で心から納得できればいいと思う。

ストレスや憎しみ、諦めは必ず自分以外のところにも連鎖するモノだと思います。
苦しい気持ち、悲しい気持ち、不幸は、決してひとから真に理解されないかわりに、連鎖だけはしていくんだと思います。

だから、どっかでその連鎖を切ってやんないといけない。
それは、自分自身だ!


そのために「世界征服」だろうと何だろうと、くだらないレベルからすべて根こそぎ、素直になっていく必要があると思います。

よし1億円つくるぞ!ってなると素晴らしい。
人から「バーローw」って言われようがなんだろうが、関係ない。

1億円は別にあってもなくてもあんま幸せには関係ないな、って思えたら、
別の新しいことに目が向かうはず。それでストレスは少なくとも一個減るはず。
次の新しいことについて真剣に考えればいい。


そういう意味で岡田斗司夫の書いた「世界征服は可能か」っていう本は、こういう思考実験のチュートリアルになっていると思います。

この本では、現代社会において「世界征服」という偉業は達成し得るのか?という可能性を吟味しつつ、その具体的な状況をシミュレートしています。

同じところをぐるぐる回っているような感が否めないのはこの著者にはよくある論述スタイルですが、それでもこの本は書名の商売っぽいあざとさなど気にならないぐらい十分に刺激的な内容でした。

結局本の中で著者は、世界征服は現代の高度な資本主義社会・民主主義社会においてはあまりにもコストに見合わないばかりか、そもそも「世界征服」という言葉すら成立しないのだという結論を得ます。

でも本書をきちんと読み進めてこの結論までたどり着いて「なんだったんだこの本は」「あほらしい」と思う人は少ないと思います。

むしろ、なんかすっきりすると思います。
このすっきり感こそ、ひとつストレスが解消した証であり、同じようにして無数のストレスから解放できるという期待なんだと思います。

「世界征服は可能か」という書名になんとなく反応してしまった人は、ぜひ読んでみて欲しいと思います。

たぶんそういう人は、世界征服できていない自分にわずかな不満を感じているはず。。。


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posted by taichistereo at 18:34 | Comment(0) | 読書
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