
以前このブログでも「
タバコケースは何がいいかな」とか楽しく悩んでいた僕ですが、いまや禁煙して10ヶ月、もうすぐ1年になろうとしています。
ふと、思う事があって、昨日、Twitterでこんなことをツイートしました。
独り言していい結論が得られたので、まとめてみます。
禁煙して10ヶ月たつが、あれ以来毎日が味気ない。味の素でもふりかければいいのか?どこに?
posted at 23:20:01
13歳の頃からの付き合いだったのだ。上京して大学生になってからは、楽しい時も悲しい時もいつでも右手の人差し指と中指の間にタバコが一本収まっていた。単なる習慣とか、それがクールなんだとか精神安定になるんだとかを超えて、生き方考え方と密接だった。
posted at 23:29:39
要するにリズムだ。歩き考えるリズムの、かなり中心に近いところに、1箱300円ほどのタバコが位置していたということになる。いま風に言えば、バイブスというやつか。
posted at 23:33:22
もっとも多感だった時期をまるまる含めて、ほとんどの思い出がタバコと結びついて記憶されてる。頭の中に。だからほとんど何をしているときでも、タバコの記憶が頭の片隅にある。頭の中にあるということは、心も例外ではない。ふと何かが足りない気がする。
posted at 23:37:55
食べるときと歯を磨くときはタバコのことを思い出さない。だから大変デブになったし、歯もピカピカで、虫歯も一本残らず直した。あげく歯医者さんと仲良くなって、ホームページ制作を依頼されたほどだ
posted at 23:41:11
おかげで白い歯と腹の肉と、料理の腕前は身についた。服も髪も部屋も臭くない。出費も減って、毎月数万円のお小遣いがもらえてる気分だ。確かに物事は良くなったかもしれない。でも、だから何だというのだ
posted at 23:45:37
行儀良く、魂が擦り切れていくようだ。嫌煙、嫌煙、嫌煙!面倒を避けてタバコを捨てたけれど、それで良かったのか。よくわからん。
posted at 23:50:38
何か一つぐらいは、依存できるものが必要ということなのか。弱いだけなのか。だとしたらこの乾きはなんだ? 仕事にも人との関係にもちっとも没頭できなくなった。
posted at 23:55:46
火をつけてもなくならない、燃え尽きないタバコを探してる。数分おきに火をつけて、またタバコ屋に買いに行くのがめんどうだ。走り出したら止まらない、そういうイメージの話だ。
posted at 00:01:13
実際にはそんなうまい話はなかった。これまでどこを探しても。身近な場所ばかりだが。世界中探せば見つかるのか?
posted at 00:04:01
妥協策というか仕方なしにというか、とりあえずしばらくの間は、燃え尽きないタバコを世界中から探すことを、タバコを吸うことのかわりにするしかあるまい。10年単位の話だ。タバコは例えだ。僕は自分自身の幸福について考えている。
posted at 00:08:44
オーケーそういうわけで、言語化できればこっちのものだ。極めてシンプル。自分の人生には言い訳できない。だからベストを尽くそう。Just do it, just for fun.
posted at 00:12:43
ということを、ボブディランの映画を見ながら思いました。おしまい
posted at 00:13:41
これが詩のようなものだとしたら、
僕はこの詩をすべての愛煙家、元愛煙家に捧げます。。。
嫌煙家の方も、僕が何を言っているのかわかるぐらいの寛容さは持ち合わせてほしいところです。あまり期待はしていませんが。
喫煙行為が中毒性のあるものであり、意思と本能とか一致しなくなってくるのと同じ様に、
嫌煙という思想も、一種のフレーム思考として常軌を逸しています。
どちらも少しおかしい。
けれどもちろん、どちらも、憎むべきほどではない。
チェーンスモーカーと呼ばれる喫煙者がいますが、嫌煙家においても、真の理由からは離れて憎しみが連鎖してしまっているだけに見える人がいます。
脊髄反射、チェーンリアクション、そんなのはタバコを吸ってようが吸ってまいが関係なく、どっちにしろダメだと思います。ダメだけど、別に否定はしません。
憎むべきほどのことではないから。
それはともかく、タバコの代わりになるものを探す事を、タバコの代わりにしてしまおうというような、言葉遊び的・再帰語的な考え方は、タバコの場合に限らず結構アリなんじゃないかと思います。
要するに、生活のモチベーションの源泉を、利益や快楽にではなく。純粋な好奇心や学習意欲などに求めるように考え方を変えてみようというわけです。
タバコは衝動と結びついたモノですが、
社会的な動物であるわれわれ人間には、瞬間的な衝動よりも、むしろ持続的なモチベーションのほうが重要です。
タバコに限らず、やめたい、やめられない、他にすべきことがある、優先順位を見誤る... といった問題のほとんどは、「衝動」と結びついているといえます。
素朴に考える限りにおいて、
衝動はコントロールを失わさせ、物事を失敗に導きやすいものですが、
モチベーションは忍耐強く、物事を成功に導きやすいものであるはず。
もちろん衝動が思い切りや決断力につながり、誤ったモチベーションによって自体がどんどん悪化していく、ということも無視できませんが... ここには最適解は無いでしょう。あくまでもケースバイケースです。
そもそもタバコを吸ったのは何故だったのか。
たぶん、好奇心だったのだと思うんです。
カッコつけたいとか、暇だったとかいうこともあったりして、ほんとうに純粋だったかどうかはわからないけれど、好奇心、ひとつの通過儀礼としての学習だったのだと思います。
いつの間にか当たり前になっていたけれど、タバコの存在も、
好奇心が巡り会わせたひとつの成果であり、通過点なのだと思います。
寺山修司の著作に「
書を捨てよ、町へ出よう」というのがありますが、
これとまったく同じ事です。
あるいはSF的に言うなら「
センス・オブ・ワンダー」という言葉がぴったりかもしれません。
目の前にあるように見える夜空の星が、実は何万光年と離れた巨大なものなのだと理解したときの驚きこそがSFの根源にある、という考え方です。
身近に寄り添っていたものについて、客観的に考え、自分の頭で枠組みをとらえ直し、さらに大きな視点を得るのです。
スティングではないですが(「バンドは思春期の幻想である」)、自分の中にある思春期の残骸を改めて意識的に乗り越えようではありませんか。愛煙家、元愛煙家、嫌煙家のみなさん。
posted by taichistereo at 14:04
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